Reflections on the Uprising in France (2006)
フランスにおける叛乱の省察
ケン=ナッブ著
本論文は、米国人シチュアシオニストのケン=ナッブによる二〇〇六年二月~四月のフランス反CPE叛乱の論考である。原文は、http://www.bopsecrets.org/recent/france2006.htmで読むことが出来る。
新しい急進的運動、ある意味で前例のない急進的運動がフランスで起こっている。これは、青年労働者を容易く解雇できる法律、CPEに反対する抗議行動として二月に始まり、広範囲にわたる遙かに全般的な考慮事項へと急速に発展した。次の二ヶ月間、数百万人がデモに参加し、大学と高校は占拠され、公共の建物は侵入され、鉄道の駅と高速道路は封鎖され、数千人が逮捕された。シラク大統領が三月三一日に示した妥協案は、ほとんど全ての人々によって拒絶された。四月十日、政府はCPEを撤回し、取り消した。
米国メディアはいつも以上に無知な反応をし、ただただフランスの若者は「進歩」と「近代化」に抵抗していると非難するばかりだった。つまり、「健全な経済」のためには一九世紀の生き馬の目を抜く「自由市場」情況に戻らねばならないというのだ。コメンテーターの不平の背後には、不安意識が感じられる。それは、自由市場だとされる米国のシステムは成功のモデルなどではなく、医療保険や雇用保障など社会的保護となると、米国はフランスなど多くの国々よりも遅れている、という意識である。
だが、他の国々同様、フランスにおいても、こうした社会的保護は近年蝕まれてきている。社会の所有者が前世紀に無理矢理受け入れねばならなかった改革(社会保障・失業保険・労働法規など社会民主主義的もしくはニューディール型のプログラム)が少しずつ削り取られている。CPE(Contrat Premie're Embauche、初回雇用契約)はさらにもう一歩の後戻りだった。これは、二六歳以下の労働者について、雇用されて最初の二年間は、いかなる正当な理由も補償も提示せずとも雇用主が解雇できるようにしていた。この論理は次のようなものだったようだ。この法律で「柔軟性」を加えることで、雇用主はもっと多くの若者を雇用できるようになり、その結果、失業を減らすことができるだろう(金持ちにさらなる減税をすることが富を分配する方法であり、理論上は金持ちの利益増加が最終的には貧困者に「漏れ落ちてくる」という誤魔化しの論理と同じだ)。現実には、CPEは、例えば人種や性別のためだとか、急進主義活動を行っているためだとか、単に、二年間の期限を経過しそうで、新しい「見習い」労働者と取り替えた方が安上がりになるから、といった理由で人々を解雇できるようにした。ボスがこの法律で上手くやってのけることができたなら、もっと悪い侵害がすぐにやってくると感じられた。これは侮辱だった。資本主義が人々を扱う際に表れる明白過ぎるほどの侮蔑の表明だった。「奴等は、私たちを使用済みのクリネックスのように投げ捨てることができるようにしたがっているんだ。」「君が短時間のパートを何度かした場合、次の雇用主は履歴書でそのことを分かり、常勤として君を雇わなくなる。君は雇用保障のない循環にはまりこんでしまう。若者は、何処にも住居を手に入れることができない。家賃の三倍の額を君が稼いでいることを証明せよと地主が要求できるというフランスの規則のおかげさ。CPE契約と共に、誰も何処にも住む場所を見つけることができなくなるだろう。」「だが、私は諦めはしない。これはCPE以上のことだ。全般的な倦怠感のことなのだ。私たちは使い捨てのクリネックス青年世代であることにウンザリしている。ボスどもに裏切られることにウンザリしている。政府に騙されることにウンザリしているんだ。私たちはフランスの完全な体制変化を求める--第五共和国の終わりをだ。共和国は私たちの現前で死につつある。」
この運動は当初CPEによって引き起こされたものの、根底にあるテーマはプレカリアート(あやふやさ、不安定)全般--社会的緩衝剤の廃止によって引き起こされた不確実性・絶望的な経済競争システムによって発生した相互恐怖と疑念・人権と市民的自由に対する攻撃の増加・地域社会の破壊と環境悪化が生み出した身体的ストレスと精神的ストレス・核と生態系終末という究極の脅威--への反対だった(遙かに重大なシステムの脅威から目を逸らすために、人々は、「テロリスト」・「性的変質者」・移民・人種的マイノリティといったスケープゴートによる想定された脅威によってパニックになるよう操作されているのである)。雇用不安はこの全般的不安感の一側面に過ぎないが、これは、大多数の人々が最も直接的に直面している不安なのだ。プレカリア--派遣労働者・非常勤労働者・季節労働者・移民労働者・闇市場労働者・低賃金もしくは無給の「研修生」といった不安定な雇用状況--の立場に追いやられている人々が急速に増加しているためである。この「プレカリアート」は、新しい種類のサブプロレタリアートである。この階級は、「労働力以外に売るべきものがない」だけでなく、多くの場合は労働力を売ることができるかどうかさえもの見通しが立たない。中途半端な状態に捕らわれた莫大な下層階級。一時的な最賃仕事・一時的な失業給付、給付金を使い切ると物乞い・売春・ちょっとした犯罪を行う。そして、そこから投獄され、急速に拡大している監獄-産業複合体に組み込まれる。そこでは、失業問題に対してシステムが「最終的解決策」--奴隷労働の復活--を提供してくれるというわけだ。
(もちろん、「失業問題」は純粋に人為的なものである。正気の社会ならば、仕事はより少なく行うべきだという事実は、嬉しい知らせだと見なされるだろう。なぜなら、このことは、万人にとって必要な労働が削減され、残存する労働がもっと幅広く共有されることを意味しているからだ。しかし、資本主義は、必要な仕事を実質的にゼロにまで潜在的に削減できるだけの一連の技術的可能性を発展させているにもかかわらず、この潜在的可能性を抑圧することで資本主義自体の存在を持続させ、必要物と交換できる不思議な紙を手に入れるためにバカげた仕事を行うよう人々に強いている。この点については、「完全雇用など望まない、十全なる生が欲しいのだ! We Don't Want Full Employment, We Want Full Lives!」を参照して頂きたい。)
四月十日の政府の退却は、抗議者にとって心強い道徳的勝利だった。しかし、同時に、出鼻も挫かれた。それまで広がっていた一般大衆からの支持は減少し、学校のストライキは中止された。(レンヌ第二大学の学生は、大学の占拠と封鎖を他の大学に先駆けて二月七日に行い、四月十八日に一番最後に戦いを止めるという栄誉を得た。)だが、数千人の民衆は様々なやり方で闘争を継続していた。CPEに似た数多くの労働法、中でも特に移民に反対する卑劣な法律の撤回を求め、今回の闘争と前年十一月の郊外ゲットーでの暴動で逮捕された人々全員の解放を求めていた。運動が終息しても、敗北はしていない。運動参加者の大部分が、何処に向かうのかを考えながら一息ついているとしても、叛逆の魂は未だまさしく存在しているように思える。
急進主義者の中には、この運動を「改良主義」だとして軽んじている人々もいる。この運動は、幾つかの法律の撤回に焦点を当て、もっと明確な資本主義批判、特に賃労働批判を行っていない、というわけである。この異議は二つの点で的外れである。まず第一に、根本的社会変革を心に描くことができるようになるまで待たずに、特定の不満事項に対して人々が反応するのは全く自然なことである。(それ以上に、当座の闘争において自分達の長所をテストしたり、自分達の批判能力を発達させたりすることがなければ、その後の段階に到達することなどありそうもないのだ。)第二に、こうした批判者が実践しているような、段落おきに繰り返される物知り顔の全く同じ急進主義的決まり文句に従っていなかったとしても、参加者の多くが全システムに敵対していることは全く明らかだった。全てのプラカード・リーフレット・宣言のなかで、賃労働の利点を称揚したものを見つけることは難しい。抗議者たちは「仕事を下さい、そうすれば満足するのです」などと言ってはいなかった。結局、抗議者たちは次のように述べていたのである。「自分達は耐え難い情況にいる。この情況の責任はこの社会を動かしている人々なのだから、こうした人々こそが何か手を打たねばならない。それがどのようなものになるのかは彼等の問題だ。彼等がこの情況に対応するまで、私たちは圧力をかけ続ける。彼等が対応できないのならば、この情況に対応する別なやり方を検討するさ。」私は、少なくとも現段階で、これ以上のことを大衆社会運動に求めるのはできないと思う。
この運動は社会におけるエリートの役割を求めた「特権的」中産階級青年の叛乱に過ぎない、と片付けている者もいる。学生が叛乱の中心だったことは真実である。だが、フランスの大学生のほとんどは、もはやエリートだと見なすことはできない。(将来の真のエリートは選り抜きのグランゼコールに行く。)大学生の大部分は労働者階級の青年であることが多くなり、中産階級の背景を持っている人々でさえも、自分の将来は決して安定していない、と実感している。さらに、高校生はもっと完全な人口分布に近い。高校生は大学生以上に数多くこの運動に参加していた。また、昨年十一月の猛烈に荒れ狂う暴動を起こした、フランスの郊外ゲットー公営住宅にいる移民青年たち、バンリュザールの多くも参加していた。ただ、今回の場合には、分断と対立があったことは認めねばならないが。(警官が側にいるときに郊外の青年集団が都市のデモ参加者を攻撃していたという幾つかの報告があり、これは、もっとギャング的な郊外青年分子の中に警察と取引をしていた者がいるのではないかという疑惑に繋がっている。しかし、こうした出来事は例外的なだったと思われる。)
いずれにせよ、これが何らかの機械論的運命を示していると言わんばかりに階級意識についてとやかく言うよりも、参加者が実際に行ったことに目を向ける方がもっと重要である。占拠された校舎で数多くの全体会議が行われ、様々な民衆層に解放された。その結果、労働者・移民・退職者・失業者・「プレカリア」が対話し、協力することとなった。学生は、狭い「学生」問題には関心を示さず、シチュアシオニズムの古典的パンフレット「学生生活の貧困について On the Poverty of Student Life」(一九六六年)で先人が非常に痛烈に批判していた失敗の多くを払拭していたと思われる。彼等の「プログラム」がある程度まで特定問題に対するものだったとしても、なおも、彼等は過去の急進的闘争の最も基本的教訓の多くを吸収していたように思える。全体会議において、彼等は学生自治会官僚制を無視した。そして、公開の議論を実施し、全ての問題について投票し、厳密な報告義務を負った代理人を使って国中の他の集会と調整するという直接民主主義を課した。(シチュアシオニストと他の少数の「急進的過激派」が一九六八年に主張し、ほとんど気に留められなかった厳格な民主主義手続きに対する強い主張は、現在では、ある程度まで標準的な運営手順になっており、ほとんど論議されることすらないほど当然のことだと広く受け入れられている。)全国的な調整がこの運動の根本的分権化を侵害することは全くなかった。様々な町や都市の人々は自分達自身の創造力を行使し、何をすべきか他者に言ってもらうのを待たずに、自分達自身の発意で驚くほどバラエティに富んだ実験的活動を行った。指導者などいなかった--指導者という言葉の定義の仕方によっては、何千という指導者がいたとも言える。(全国学生自治会の会長を「運動の指導者」に指定しようとメディアは涙ぐましい努力を行っていたが、誰もそれに注意を払わなかった。)大衆デモに参加した際、彼等は、警察だとか労働組合や学生自治会の司令部だとかが前もって決めたルートに導かれることを拒否し、独自の行動を行うべく脇道に逸れていくことが多かった。この運動を暴力的破壊者(カズール casseurs)と「信頼できる」抗議者とに分断する計画を拒否し、目標を達成するための闘争における様々な戦術と傾向とを受け入れながら、その目標に焦点を当て続けた。保守的政治家を嫌悪するのと同じぐらい、彼等は左翼政党を軽蔑していた。悪い中でもまだましな方だとして左翼政党に投票する者がいたとしても、左翼政党に幻想を抱くことなどなかっただろう--直接行動の方がよっぽど効果的だ(そして、遙かに個人を解放し、遙かに楽しいものだ)ということを自分達の経験を通じて学んでいたのだった。
一九六八年五月に、青年叛乱に影響されて、歴史上初めての山猫ゼネストが行われた。フランス全土で千百万人の労働者が工場と仕事場を占拠したのである。現在の闘争に多くの労働者が参加し始めると、多くの人々はこのシナリオが再現される可能性を思い描いた。しかし、一九六八年の叛乱を妨害したのと同じ様々な労働組合が、今回も、ゼネストに向かう活動を何とかして思い止まらせようとしていた。この運動への労働者の参加は大規模だったが、その大部分は、厳格に管理されたデモ、そして、二週間かそこらに一度の短く純粋に形式的なストライキという労働組合が統制した枠組みに留まっていた。あり得ることだが、政府が最終的に降参した理由の一つは、労働者の山猫活動が労働組合の束縛から飛び出し始めていたからだと思われる。幾つかの例を挙げれば、電気工事労働者はモンペリエの市庁舎とショッピングセンターに対する電力供給を三〇分間打ち切っており(四月四日)、郵便物仕分け事務所を占拠して警察に容赦なく排除された青年達に連帯してレンヌの郵便局員は短時間のストライキを行った(四月八日)。こうした行動は、組合が四月十日の「勝利」を歓迎できるようになって、実質的に終結してしまった。
だが、青年の反逆者達はストライキや工場占拠に固執してはおらず、それらが生じることを受動的に待ってもいなかった。青年達は直ちに先へと進み、封鎖と占拠を自分達自身で行っていた。最初は自分達の学校で、そして他の学校へと広がり、さらにあらゆる場所に侵攻していった。こうした行動の驚くほどの量とバラエティを幾ばくかでも理解するために、Agence France Presse の特派員がある一日について報告したものの一部をここで引用しよう。
フランス全土の反CPE電撃活動
今朝、パリにおいて、千人以上の高校生・大学生が東駅を襲撃し、サン-ラザール駅で十五分間にわたり列車運行を妨害し、北駅近くで一時間半にわたり鉄道路線を封鎖し、デモ参加者の中には治安部隊に石を投げつける者もいた。そして、若いデモ参加者はペリフェリック(パリの外環高速道路)に侵入しようとしたが、治安部隊によって阻止された。ポルト=ドゥ=ラ=シャペルでは、パトカーを打ちこわすために無人のバスを大槌のように使うデモ参加者もいた。
他のデモ参加者は、この朝、オルリー空港への道路を妨害していた。
トゥールーズでは、消防署の報告によれば、マタビオ駅において、数百人がほぼ二時間にわたり線路を封鎖し、そこから暴力的に排除される際に五人の学生と警官一人が軽傷を負った。トゥールーズ郊外では、学生と労働組合員がコロミエとSaint-Martin-du-Touchにあるエアバス社工場への通路の幾つかを封鎖した。
南西部でも、ナルボンヌ警察は線路でのデモを追い払い、十一人が逮捕された。その朝、東ナルボンヌでは有料道路の「無料」通行が実施されていた。
北部では、五百人~千人のデモ参加者がリール-フランドル駅近くの線路を一時間弱にわたり占拠し、幾つかの列車が遅延することとなった。ブーローヌシュルメール(パドカレー)では、大学生と高校生が海港工業地帯への貨物道路を二時間にわたり封鎖していた。
抗議運動が最初に起こった西部では、デモ参加者はナント・レンヌ・カンペールで主要高速道路を封鎖した。レンヌでは数百人の学生がストライキを行っていなかった法科大学を襲撃し、CPEに賛成の保守的学生自治会、UNIの事務所を破壊した。
ルーアンの大聖堂前では、十八歳の高校生がCPEに反対するハンストの八日目に突入していた。
グルノーブル大学のキャンパス近くでは、数百人の学生がピエロの鼻を付け、肌にバーコードを書き、「買え!買え!奴等は私たちを売りに出しているんだ!」と繰り返し叫びながら、一時間にわたってスーパーマーケットに殺到し続けていた。
およそ一五〇人の高校生と大学生が、ストラスブールとドイツのケールとの間にあるライン川にかかる橋を一時間半にわたり封鎖した。
ナンシー郊外では、五十人ほどの医学生が四十分間にわたり高速道路を封鎖した。ランス近くの高速道路A4では、数十人の高校生が八時から十時まで「無料」通行を実施した。
クレルモンフェランでは、五十人の学生が一時間にわたり、フィルターバリケードを築いた。反CPEデモはリヨンの繁華街でも行われたが、負傷者などは出なかった。リモージュの交通はバリケードのおかげでほとんど一日中混乱していた。
カンの繁華街では、早朝に治安部隊とデモに参加した数百人の若者との間で対立があり、数人が怪我をした。[AFP, 6 April 2006]
この報告は、本質的に、無作為に選んだものである--三月や四月初旬であれば、ほとんど毎日、同様の行動が企画されていた。そして、もちろん、これらの行動は、AFPレポーターが偶然耳にした最も「ニュースバリューのある」行動に過ぎない。数え切れないほどの小規模な行動やそれほど華やかではない行動は、フランス全土の多数の町で継続的に行われていた。一九九八年のフランス失業者叛乱のような最近の闘争にも、こうした幾分小規模な行動が含まれてはいたものの、今回の運動ほどのこうした行動の規模と多様性には先例がない。
こうした行動の中には、前もって告知され、数千の人々が実行したものもあった。しかし、より小規模な人々が衝動的に行った行動の方が遙かに多かった。こうした「電撃戦」(actions coup de poing)や「稲妻襲撃」(raids e'clair)は、この運動の最も独創的で、最も有望な側面を示している。数十人・数百人が突然一点集結し、自分達の作戦を実行し、同じように突然分散する。このことで、逮捕を回避したり、最小限に留めたりするのである。何処に援軍を送り込むべきなのか警察には分からないようにするために、目的地は最後の一分まで秘密にされることが多い。多くの場合、目標は何らかの建物--デパートやスーパーマーケット・新聞社・ラジオ局やテレビ局・郵便物仕分けセンター・職安・派遣会社・不動産会社・商工会議所の事務所や政治政党の本部--を襲撃することだった。輸送ネットワーク--鉄道の駅・交差点・自動車専用道路・地下鉄・橋・バスの発着駅・空港--を封鎖することが目的だったものもある。この封鎖は部分的だった場合もある。「カタツムリ作戦」(交通を鈍くする)や「フィルターバリケード」(車が徐行しかできないようにして運転者にリーフレットを渡せるように街路を封鎖したり、個々人が往来する際に話しかけられるように建物への通路を封鎖する)といったものがそうである。
通常の仕事の流れを妨げるだけでなく、電撃戦の参加者達は、創造的・教育的な要素を付け加えることが多かった--落書き・大きくて剥がしにくい張り紙や横断幕(この類の成功例は、疑いもなく、ディジョンでクレーンに取り付けられた三〇メートルに及ぶ縦書きの横断幕だった)・自分達が破壊した機関が持つ社会的役割を暴露したリーフレットの配布・労働者や通行人への話しかけ・様々なゲリラ劇場の実施などである。頻繁に一連の襲撃が行われ、元々のターゲットが余りにも警備が固いような場合には、別な目的地に向かうことに意見がまとまった。そして、フランスでは比較的新しいことだが(この点で、フランスは他の国よりも既に遅れていた)、こうした行動の多くはメールグループを通じて計画され、行動の直後にはテキスト・写真・ビデオによってオンライン上で即座に連絡された。このことで、参加者は自分達の行動を調整できるようになり、フランス全土にいる人々や他の国の人々でさえもが、独自の情況の中で自分達が採用したいと思う様々な戦術を比較対照することができるようになったのだった。
こうした電撃戦は、様々な集団が独自に実行していたため、その結果は当然非常に異なっていた。多分完全に失敗だと思われるものもあれば、全く大きな関心を引き起こさなかったと思われるものも多くあった。しかし、もっと独創的なものの幾つかを見れば、新しい急進的実践がここで具体化していたのだと思われる。この実践は、これまでのところ、非常に明確に認識され、理論化されてはいるわけではない。参加した人々が、自分の経験の詳細を--特定の実例について、何を目的とし、何を達成し、何を達成しなかったのかの分析を含めて--説明してくれることを望むばかりである。この運動にとって、成功した電撃戦を他の事実上「アジ宣伝」の行動(つまり、人々を根本的に教育したり、刺激したり、堕落させたりすることを目的とした行動)と比較することが有効だと思われる。
「見届ける実践」の類の非暴力行動は、平静さを促し、「憎しみの絆」を弱くするという利点を持っているが、他者の感情を害することを恐れるあまり、攻撃できないようにさせてしまうことが多い。電撃戦は、支配秩序の諸制度と代表者に対してもっと攻撃的である(通常はそれでも尚非暴力的ではあるが)。対抗文化的お祭り騒ぎは非常に楽しいものになりえるが、あれこれの社会的アイデンティティを満足げに「祝いながら」、大部分が自己満足となってしまいがちである。電撃戦も同様の遊び的・悪ふざけ的精神を持っているものの、参加者は自分の境遇についていかなる幻想も持たずに、自分の苦情に焦点を当て続けている。特定の場所に突然集結することは、「フラッシュ=モブ」を連想させる(ある程度までこれに刺激されたのかも知れない)。しかし、フラッシュ=モブの場合、一旦その目的地にたどり着くと、その活動は全く当たり障りのないものだったが、電撃戦の場合には、明確に標的を攻撃することを計画している。大衆デモは数の上では遙かに大きな勢力ではあるが、電撃戦のような急速に移動し、必要に応じて解散したり再集合したりできる柔軟性を欠いている。これが、近年の「ブラック=ブロック」戦術が発展した主たる理由だった。だが、ブラック=ブロックは市街戦や都市ゲリラ戦のようなバカげた空想に捕らわれてしまうものである。電撃戦は、物理的力だけでなく感情と発想のレベルでシステムに立ち向かいながら、システムの長所から巧みに逃れ、その弱点につけ込むことを目論んでいる。ブラック=ブロック行動が衝動的で容赦なく尊大で純粋に破壊的になる場合が多いのに対し、電撃戦は計算・創造・ユーモアというもっと大きな要素を含んでいる。ゲリラ劇場は伝統的舞台の放棄とメッセージを世界に発するというメリットを持っているが、見世物-観客というある種の分離が残る。急進的教えがなおも聴衆に提示されているのである。電撃戦参加者は、自分達が批判している制度を具体的に混乱させることで、その「教え」を例示する。従って、どのような「聴衆」がその場面にいようとも、その受動性に対してもっと直接的に挑んでいるのである。その行動の中にはほとんどシュールレアリズムに等しいものもある。最も有名なものの一つは、会社や政府官庁に侵入し、全ての家具を舗道に運び出すだけ、というものである。表面上、これは、現実に常々行われている立ち退きを想起させるように意図された一種の象徴的「立ち退き」だった。しかし、奇想天外な「模様替え」をすることで、全てのものを破壊するよりももっと驚くべき(そして、法的にもそれほど危険のない)ものとなっていた。そして、都会の風景に一時的変更を加えるために公的許可をもらっているコンセプチュアル=アーティストのプロジェクトよりも、もっと根本的に混乱させる効果を持っていたことは疑いもない。最良の場合、電撃戦の幾つかは、一九六八年五月を導く時期に行われたシチュアシオニスト型の混乱を彷彿とさせた。これまで、電撃戦の中でシチュアシオニストのスキャンダルと同じぐらい明快なものも、ハッキリと主張を述べたものもないが、一方で、電撃戦の方が遙かに数が多く、物理的にも攻撃的だった(参加した人の数が多かったために)のである。
言うまでもなく、この分類は多少ルーズである。それぞれのケースで、幅広い範囲の行動を対象としており、他の行動よりも効果的なものもあれば、他のタイプと重なる部分を持つものもある。例えば、非暴力の傾向の中には攻撃的なものもあった。フラッシュ=モブの中には批判的威力を持つものもあった。ブラック=ブロック行動の中には電撃戦に類似したものもあった(事実、電撃戦は、経験によってブラック=ブロックがもっと意識的でもっと集中的なものになった結果であり、ある程度までブラック=ブロックの単なる自然な進化形態なのである)。こうした比較は、単に、電撃戦を大局的に見、電撃戦の現状とそのあり得る姿を明確にするための、荒削りな準備的試みに過ぎない。
フランスの電撃戦の大部分は「変わり映えしない日常」を妨害したり閉鎖したりすることを目的にしている一方、真逆のやり方を取り、物事を開放した者もいた--地下鉄の駅のゲートを開放し、誰でも只で乗車させたり、有料道路の料金所に侵入し、車を無料で通過させたり、博物館やコンサートを無料で人々に開放したりしていたのである。この種の行動(名前が付いているのだろうか?)は、高く評価してもし過ぎることはない。これは、労働者が通常の仕事を行いながらも、商品経済を打破する「社会的ストライキ」や「無料提供ストライキ」--店員が客に代価以下の請求をしたり、労働者が生産物を無料で提供したり、ある種のサービスの請求を辞退したりする--といったもっと模範的な戦術さえにも等しく、また、そうした戦術を鼓舞する可能性がある。単なる否定的なストライキや封鎖が持つ問題の一つは、支配者以上に一般人に迷惑をかけることが多い、ということである。公共交通機関の労働者がストライキを行い、交通システムを麻痺させた場合、最初は人々から支持されるかも知れないが、数日後には人々の我慢も限界になってきてしまう。だが、こうした労働者が、人々を無料で乗車させながら、自分達の仕事を継続し続けるならば、人々はそれがどれほど長く続こうとも、好ましく思うであろう。この種の行動は、ほとんど全ての人々(ボスどもを除いて)を和ませ、解放された社会がどのように運営されうるのかを示唆してくれる。こうした行動を止めるのは難しい。特に、それが広まった場合には。経済の主要部門を占めている多数の労働者を排除したり、交換したりすることなど実質的に不可能なのである。
このことは、電撃戦行動の限界を明示している。外部からの集団は、一時的に何かを封鎖したり妨害したりできても、ストライキを貫徹することはできないのである。ましてや、仕事場での無料提供ストライキを行うことなどできない。システムを停止させるだけでなく、根本的に異なるやり方で物事を開始する立場にある唯一の勢力は労働者大衆である。この事実から逃れることはできないのだ。
それでも尚、フランスでの暴動は、経済的・政治的影響力をほとんど持たない人々によってさえも、システムがどれほど脅かされうるのかを示している。参加者がゼネストを惹起できなかったとしても、なおも、参加者自身を含んだ誰もが予想した以上のことを行ったのだ。そして、こうした闘争で重要なことは、即座の結果ではなく、経験それ自体が持つ豊富な教訓なのである。
これは、質的変革が本当に可能となる類い希な瞬間の一つであった。全ての物事が宙に舞い、通常の推測がもはや適用されない瞬間の一つであった。人々がスペクタクルに誘発された習慣的無感覚状態から振り落とされ、現実生活を--これほどまでバカげた社会システムにはめられなければ、可能となる生活を--垣間見る瞬間の一つだったのだ。一つの突破口はもう一つの突破口を導き、さらにもう一つ、そしてさらにもう一つと突破口を導いていく。これが生じている最中、参加者は、「過ぎ去った日々」に自分達が堪え忍んでいたことを信じることなどできなくなる。これが終わり、「普通の」精神状態に陥ってしまうと、参加者は、この不思議な幕間の出来事で自分達が思い切って行っていたことを信じることなどできなくなる。
これは長くは続かない--数時間・数日・最大でも数週間のことだ。破滅の危機に曝されて、支配秩序はあらゆる勢力を利用する。物理的弾圧というあからさまの力だけでなく、問題を混乱させ、反対者をかわし、分断し、吸収するためのもっと巧妙な様々な方法という厖大な武器をも使う。こうした圧力の下、反乱者は停滞しているわけにはいかない。唯一の希望は、波及し続け、革新し続けることである。叛乱を防衛する唯一の方法は、叛乱を拡大することなのだ。
しかし、現在の運動がこれまで以上に先に進まないとしても、既に二つの勝利を達成しているのだ。一つは、政府を退却させることに成功したことである。二つ目の遙かに大きな勝利は、この運動それ自体の経験である。まさにその存在こそが、余りにも長く蔓延してきた卑劣な「社会通念」に対する論駁なのだ。「革命は時代遅れだ。現行システムに対する代案などない。幾つかの改良を慎ましく請うことぐらいしか私たちは期待できないのだ。急進的になり過ぎるな。さもなくば、一般社会から疎外されてしまうぞ。」フランスの暴動は、こうした神話を粉砕した。数週間の間に、全ての世代が政治的になった。参加者はそれ以前と全く同じ人間に戻りはしない。その創造性・その大胆さはこの先何年も世界中の人々を触発し続けるだろう。
BUREAU OF PUBLIC SECRETS
22 May 2006
Japanese translation of Reflections on the Uprising in France (2006). No copyright.
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